2008年6月29日日曜日

X-Patriate

あるいは Alan J. Lipman というシンガーソングライターを、last.fm で知り合った人に教えてもらった。

とても叙情的な音楽で、ちょっとボブ・ディランに似ていてなかなかいいのではないか、とひそかに思っている。 "The Cost""I'd Rather Close My Eyes"、 "Dirty Little Secret" などなどあまり音楽を聴くほうではないので、よくわからないが、わからなさ具合がボブ・ディラン的。

The Cost は美しいメロディーで、そのうち、CDがほしいと思っているが、今のところはMySpaceで聴いている。

2008年6月21日土曜日

面白いテレビドラマ

ケーブルテレビに加入してから海外ドラマが見放題…。主にアメリカのドラマだが。最初は『アリー』だとか、『救急救命室』だとか、見ていたが、ドラマ自体があまりに長く続いて、同じシーズンが何回も何回も放映されるので、次第に飽きてしまった。

でも、今一番面白いのは『ボストンリーガル』。ジェームズ・スペイダーがいいなあ。『嘘とセックスとビデオテープ』のころの初々しさはなく、でぶってきているが、それでもいいなあ、と思う。ドラマも、建前だけの正義感ぶったところがないのがいい。キャンディス・バーゲンの白く輝くたてがみも見ものだ。


2008年6月14日土曜日

Firefox 3 がもうすぐ

6月の17日は、Firefox 3 のリリース日

プチわくわく日だ。どのくらい速くなっているのだろう。

2008年6月8日日曜日

六月六日は森茉莉の命日

だった。

ちょっと不思議だが、六月六日は森茉莉の命日だということを記憶していても、その直前になると忘れてしまうことが多い。

今年もうっかり忘れていて、吉行淳之介の「懐かしい人たち」を意図せずに読み返した。それに森茉莉の葬式の話が出てくるが、読んだのがちょうど六月六日の夜だった。

また“ちょっと不思議”なのは、吉行氏が六月二十日の葬儀の前夜に、森茉莉から宮城まり子にかかってきた電話のテープが見つかり、その中で、「私が死んだらね、吉行淳之介が必ず追悼文を書く、と私は信じているのよ」と森茉莉がしゃべっているのだそうだ。

冗談にも森茉莉と一切面識のない私なので、森茉莉が私に彼女の命日を思い起こさせようとするはずはないのだが。

2008年6月7日土曜日

Jane Austen

ジェーン・オースティンはすごいなあ、と思う。

最初に読んだときは、文学としてはあまり奥行きがない、つまり深刻なテーマを扱っていない、と軽く考えて、ただ楽しんで読んでいた。テーマは、若い女性の結婚にまつわるいきさつだ。
でも、何回読んでもおもしろいのは、なぜだろうか。単なる家庭小説だ、と片付けられないのはなぜか。

「高慢と偏見」「エマ」「説き伏せられて」…、いずれも若い女性(説き伏せられてのアンは、オースティンの主人公にしては若くない。二十代後半だが)が、いかにして、人生の後半を幸せに生きるために、自分の納得する相手と結婚するか、に尽きる物語だが、彼女たちは一時の情熱にとらわれて馬鹿な結婚をする羽目には、絶対に陥らない。恋愛至上主義者から見ると、一見計算高い女性たちに見えたりもするのかもしれない。

また、彼女たちは、一人として、同じパターンを持たない。それぞれに独自の家庭背景を、つまり身分にまつわる種種さまざまの制約を持ち、完全に異なった輪郭を持つ。驚くべきことに、オースティンの小説では、主人公の周りにいる、脇役たちも、どれも一人として同じ人物と思われるものは、登場しない。

まったく驚くべき想像力だ。

主人公を含めた登場人物たちは、身分や地位、境遇などの外的な制約が明瞭に描かれ、また、外的な制約とほぼに、明瞭に異なった内面生活を持っている。

二十世紀の小説によくあるような、物語は異なるが、同じような境遇で、同じような内面をもった主人公と思われる人物は、いないのだ。

時代のせいだろうか。彼女の想像力の幅広さだろうか。あるいはその両方だろうか。

2008年5月25日日曜日

Cloud Computing

最近良く聞く言葉だ。

最初は Internet(インターネット)、次は Web、そして Cloud Computing(クラウドコンピューティング)。

コンピュータネットワークの世界は、流れが速い。速すぎて、押し流されるどころか、岸辺にたまるごみの中に置いてけぼりにされそうだ。

ごみはごみなりに、次の言葉を予言してみよう。“Unknown Network”“Nano Robot World”“Next Is You Wind”とかね。

2008年5月18日日曜日

ミステリー小説のミステリー

最近ケーブルテレビでよくポワロものを見る。原作はアガサクリスティで、小説でも読んだものがたくさんある。小説のときはあまり気づかなかったが、たった今殺人事件があったというのに、ポワロとその友人が楽しそうに笑っている場面が多くあるような気がする。

ナイル殺人事件でも、数人が殺されて、どれもみなポワロやその友人の顔見知りで、食事の席に一緒についたこともある人たちだ。

なぜあのように明るく笑えるのか? 不思議だ。

ミステリー小説というのは、役割分担のはっきりした分野なのだろうか。殺人者、探偵、警察、容疑者多数、被害者。一番疑われた容疑者が、実はそうではなく、一番疑われなかった人物が、実は犯人、という場合が多い。

役割分担がはっきりしているので、探偵は絶対被害者にならない、という安心感から、あのように、人が殺された直後でも、冗談を言って笑えるのかもしれない。それにしても、実生活でこのような場面があったら、ひどく不自然に見えるだろう。

もうひとつは、警察というのは、探偵(あるいは有能な刑事、警部、警視)の明晰な頭脳を際立たせるために登場するが、恐ろしくなるのは、もし読者が事件に巻き込まれて、容疑者になった場合、ポアロなどのような名探偵がそばにいなかったら、あっさり無実の罪を着せられてしまうのかもしれない、という恐怖だ。

実際の警察は、ミステリー小説と違って、ポアロなみに有能であってほしいものだ。