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2010年6月13日日曜日

ドリトル先生、カムバック!

おかしな反人種差別主義者のおかげで、『ちび黒サンボ』が書店から消えたのは、
残念だ。

おまけに、最近『ドリトル先生』シリーズも見かけなくなったと思ったら、
こちらも、原書のシリーズもすべて、植民地主義だということでなくなり、
かろうじて、作者の息子だと言う人が1冊にまとめたものしかない。

それはまあ、それで面白いのだけれど、アフリカに行く話が気が抜けたようになっていて、
分量も減って、さびしい。

文学を政治的に断罪するのはどうかと思う。
断罪したからと言って、大英帝国の犯罪が消えたわけではないし、
それはそれで、当時は実際にみな楽しんで読んでいたと言う事実は消えないのに。

ところで、ドリトル先生の作者は、実はアメリカに住んでいた、という。

英国人だけれども、大学はアメリカの西海岸で、第一次大戦のとき、
戦地から子供たちのために戦争の悲惨な話の代わりに、
『ドリトル先生』を書いたそうだ。

もう一度、『ドリトル先生』全シリーズを読める日が来るのだろうか。

2009年8月30日日曜日

『ジェイン・オースティンの手紙』

1970年代までは、どの家にも状差しというものがあり、親兄弟、親戚、知人などから来た手紙が差し込まれていたと思う。電話料金は高く、よほどのことがない限り、長距離電話はしなかった。

いまや、世界中どこにでも、瞬時で届く電子メール、というものがある。相手がインターネットに接続できる環境にあることが前提だけれども。

ジェイン・オースティンの生きた時代には、当然、電子メールはおろか、電話すらなかった。彼女は、姉や兄、友人たちに膨大な手紙を書き、日常生活のこまごまとした事柄などを、伝えている。

それを読むのは、実に面白い。まるで、彼女の時代にともに生き、最近あった出来事を知らせてもらっているかのような錯覚を覚える。自分のものを含めた恋愛、結婚、病気、死別、その合間に、シャツを縫ったり、ドレスを注文したり、帽子につける飾りについてあれこれ悩んだり。

まとまった小説ではないのに、これほど面白い書簡集は、読んだことがない。

2009年8月13日木曜日

夏休みと三文小説と…

久々にまるまる1週間、休暇をとった。

子供の夏休みのようだ。

何が、というと、休暇中に少しでも英語を練習しなければ、と言う強迫観念に脅かされつつ、三文小説に現を抜かすところが。

休暇の始まる少し前に図書館に三文小説を仕入れに行った。

コンピュータゲームやらインターネットやらの隆盛で少しは利用者が減ったかと思っていたが、昔と変わらず、子供たち(学生)が勉強部屋代わりに使っていたり、妻に追い出されたのか、サラリーマン風の若いのやら年取ったのやらの男性たちが雑誌をめくり、にぎやかだった。

昨年もこうして三文小説を大量に借り出し、読んだが、今年はなぜか、去年ほど面白くない。

なぜだろうか。

普段は寝る前にジェーン・オースティンとかアン・タイラーとかの、いわゆる純文学を、繰り返し繰り返し、読むが、そのせいだろうか。

成功した三文小説、娯楽小説、は、読者を楽しませるために読者の期待を裏切らないために、あらゆる工夫を凝らしているはずだ。それで面白くない、とは私の趣味が変わったせいなのだろうか。

たとえば、アン・タイラーの『あのころ私たちは大人だった』は、50歳を過ぎた女性の、春から冬にかけての話だ。それほどとっぴなことは起こらない。ずいぶん昔に亡くした夫との生活、そのはるか昔に別れた最初の恋人とのあれこれ。

義理の娘たちの結婚、出産、義理の叔父の百歳の誕生日、などなど。

でも、読み捨てるべき言葉はひとつとしてない。どれもこれも、作者の中から苦労して取り出され、調理された極上のものだ。たとえ翻訳と言うフィルターを通していても。

しかし、本当のところ、三文小説と純文学を分ける決定的なものは、何なのだろうか。

2009年3月22日日曜日

ダビー『シモーヌ・ヴェーユの世界』(3)

シモーヌ・ヴェーユを体系的に理解しようとしてはならない。

思想の断片がひとつひとつ、真実のかけらなのだ。それらを無用な接続詞や、文や、段落でつなぎ合わせようとすると、たちまち、硬直化してしまう。

原因があって結果があり、原因は結果を導き出すためにあり、結果は原因がなくては、意味を成さない、と考えるのは、近代的な悪しき思考だ。

サンディカリストとして出発し、敬虔なキリスト教徒として死んだ、とシモーヌ・ヴェーユを理解すれば、それは理解しやすいだろうし、その生涯の変節の原因を穿り出し、いかにもわかったような顔をしたいかもしれないが。

しかし、表面以外はいかなる変節はなかったし、何も変わってはいない。変わったのは時代だ。

2008年12月21日日曜日

歯痛の文学

最近また、歯医者通いをする羽目になった。

治療用の椅子に仰向けになって、つい、思い出してしまうのは、ギュンター・グラスの『局部麻酔をかけられて』(原題Örtlich betäubt)だ。

学生時代、ドイツ文学の演習でやった。小説の主人公も歯医者の椅子に横たわり、局部麻酔をかけられて治療を受けるのだが、その間、あれこれ断片的に考える、という内容だ。

もうひとつ、思い出すのはトーマス・マンの『ブッデンブローグ家の人々』だ。代々落ちぶれていき、最後の当主は、虫歯の治療中に敗血症になり、ものすごい痛みとともに死ぬ。怖いなあ。

2008年8月17日日曜日

夏休みの収穫

ちょっとまとまった夏休みがとれたので、初日に近所の図書館に駆け込んだ。

目当ては気の張らない三文翻訳ミステリだ。くたびれた文庫の本棚の二三百の本の前でしばし、呆然とする。が、たいていは五六年かけて読んだものばかり。すでに読んだ本でも、読んだことがあるのを忘れて借り、失望することが多いので、要注意。本を選んでいると、終いには頭痛と腹痛に襲われる。

結局六冊を選んだ。

キャロリン・G・ハート『死の散歩道』:昔読んだような気がするが、ほとんど忘れているので、読書に影響なし。単なる暇つぶし。
キャロリン・G・ハート『手紙と秘密』:まあまあ。単なる暇つぶし。
クレイグ・スミス『レディ・スティンガー』:クレイグ・ライスと間違えた。が面白かった。ウエットでないのがいい。
ジョージ・ハラ『悩み多き哲学者の災難』:インテリぶったところが、ちょっといやみ。まあ面白い。
I・マキューアン『愛の続き』:面白くなさそうだったので、最後に回したが、やっぱり面白くなかった。気取りすぎ。

とっても面白かったのは、ケン・ブルーウン『酔いどれに悪人なし』だ。

夏休みの収穫はこれだ。勝手に事件が起きて、勝手に進行し、勝手に解決されちゃう。元警官の私立探偵がアル中を克服する。さまざまな本からのたくさんの引用。たっぷりのユーモア、悪人が死に、善人も死に、残された探偵は長年の夢だったロンドンに行く。

2008年8月3日日曜日

二人のミスマープル

アガサ・クリスティの原作によるテレビドラマ、ミスマープルシリーズは、知る限り、二つある。

ひとつは、ジョーン・ヒクソン主演のもの。白髪を丸髷に結って、いかにもイギリスの独身おばあさん。
頭脳明晰、冷静沈着。若いころの話は一切出ない。

もうひとつは、ジェラルディン・マクイーワン主演のミスマープルで、少々色っぽい。髪型もちょっと眺めのおかっぱで、かわいらしい帽子をかぶって、素敵なカーディガンを羽織っている。

が、素敵なのはここまで。若いころ、不倫相手に死に別れた、という湿っぽいエピソードが、これ見よがしに入って、これでは、頭脳が明晰に働かないのではないか、と心配になってしまう。

どうして、こういう余計なストーリーを入れるのだろう。ミスマープルことジェーンが、独身を通したのが、そんなに気になるのだろうか。

2008年7月27日日曜日

ロシアサラダ――森茉莉のレシピ

森茉莉は若いころ、ほとんど結婚直後にヨーロッパに行っているが、そのとき、ドイツの安下宿で出会ったというのが“ロシアサラダ”だ。

レシピというのは、豪華フルカラーの料理本より、単に文字で書いてあるほうが、興味をそそったりする。夜中に森茉莉のエッセイ(とでもいうべきもの)を読んでいて、明日の朝起きたら絶対作ろうと思った。

材料は、ジャガイモ、たまねぎ、にんじん、グリーンピースの缶詰、白身の魚。

ジャガイモとにんじんはさいの目に切り、ゆでて、白身の魚は蒸して、たまねぎはみじん切りにして、これらをドレッシングであわせる、とても簡単で、腹持ちのいいおいしい一品になった。

森茉莉氏の時代からは遠くなった21世紀であるので、ジャガイモとににんじんはレンジで蒸して、適当な白身の魚がなかったのでツナ缶で、グリーンピースの代わりにさやえんどうのぶつ切りだったが。フランスパンに赤ワインを添えれば、絵になるなあ、と思いつつ、食べた。

2008年7月13日日曜日

狂信的ロボット

アイザック・アシモフの『われはロボット』(原題:I, ROBOT)はとても面白い。遠い昔若いころに読んだときも面白かったが、年月がたってもまだ面白いのには、びっくりだ。なぜなら、そのころ思い白いと思ったSF小説のほとんどが、今読むとぜんぜん面白くないからだ。

アシモフは右でも左でもなく、非常に常識的な考えの人だったのではないか、と思う。極端に偏った小説の場合、時代が変わってしまえば、時代の雰囲気の後押しなしに、読者は向き合わなければならない。

それはともかく、『われはロボット』の三番目の話、「われ思う、ゆえに」の面白さは、尋常ではない。この話に出てくるロボットは、自分の見たもの、体験したものしか信じない懐疑論者だ。彼は自分たちロボットが人間の手で作られたのを信じようとしない。エネルギー効率の悪い、1日に数時間は昏睡状態に陥る、物理的にも知的にも劣る人間が、自分たちを作れるはずがない、というのだ。

あなたたちは主の奴隷に過ぎない、主から与えられた部品を組み立てて、私たちロボットを作ったに過ぎない。それがあなたたち人間の役割だったが、それも終わった、と言う。

どうあがいても、人間の登場人物たちは、キューティ(ロボット)を納得させることができない。

ところで、一歩下がって、考えてみると、確かに人間は人間を再生産できるが、その原理を自分たちで考え出したわけではない。人間の持つ思考能力は、人間が自分に与えたものだと言えるのだろうか?ロボットを作る能力を人間が持っているのは、誰かから与えられたからではないだろうか。

キューティが間違っている、と誰が確信を持って言えるだろうか。

2008年6月8日日曜日

六月六日は森茉莉の命日

だった。

ちょっと不思議だが、六月六日は森茉莉の命日だということを記憶していても、その直前になると忘れてしまうことが多い。

今年もうっかり忘れていて、吉行淳之介の「懐かしい人たち」を意図せずに読み返した。それに森茉莉の葬式の話が出てくるが、読んだのがちょうど六月六日の夜だった。

また“ちょっと不思議”なのは、吉行氏が六月二十日の葬儀の前夜に、森茉莉から宮城まり子にかかってきた電話のテープが見つかり、その中で、「私が死んだらね、吉行淳之介が必ず追悼文を書く、と私は信じているのよ」と森茉莉がしゃべっているのだそうだ。

冗談にも森茉莉と一切面識のない私なので、森茉莉が私に彼女の命日を思い起こさせようとするはずはないのだが。

2008年6月7日土曜日

Jane Austen

ジェーン・オースティンはすごいなあ、と思う。

最初に読んだときは、文学としてはあまり奥行きがない、つまり深刻なテーマを扱っていない、と軽く考えて、ただ楽しんで読んでいた。テーマは、若い女性の結婚にまつわるいきさつだ。
でも、何回読んでもおもしろいのは、なぜだろうか。単なる家庭小説だ、と片付けられないのはなぜか。

「高慢と偏見」「エマ」「説き伏せられて」…、いずれも若い女性(説き伏せられてのアンは、オースティンの主人公にしては若くない。二十代後半だが)が、いかにして、人生の後半を幸せに生きるために、自分の納得する相手と結婚するか、に尽きる物語だが、彼女たちは一時の情熱にとらわれて馬鹿な結婚をする羽目には、絶対に陥らない。恋愛至上主義者から見ると、一見計算高い女性たちに見えたりもするのかもしれない。

また、彼女たちは、一人として、同じパターンを持たない。それぞれに独自の家庭背景を、つまり身分にまつわる種種さまざまの制約を持ち、完全に異なった輪郭を持つ。驚くべきことに、オースティンの小説では、主人公の周りにいる、脇役たちも、どれも一人として同じ人物と思われるものは、登場しない。

まったく驚くべき想像力だ。

主人公を含めた登場人物たちは、身分や地位、境遇などの外的な制約が明瞭に描かれ、また、外的な制約とほぼに、明瞭に異なった内面生活を持っている。

二十世紀の小説によくあるような、物語は異なるが、同じような境遇で、同じような内面をもった主人公と思われる人物は、いないのだ。

時代のせいだろうか。彼女の想像力の幅広さだろうか。あるいはその両方だろうか。

2008年5月18日日曜日

ミステリー小説のミステリー

最近ケーブルテレビでよくポワロものを見る。原作はアガサクリスティで、小説でも読んだものがたくさんある。小説のときはあまり気づかなかったが、たった今殺人事件があったというのに、ポワロとその友人が楽しそうに笑っている場面が多くあるような気がする。

ナイル殺人事件でも、数人が殺されて、どれもみなポワロやその友人の顔見知りで、食事の席に一緒についたこともある人たちだ。

なぜあのように明るく笑えるのか? 不思議だ。

ミステリー小説というのは、役割分担のはっきりした分野なのだろうか。殺人者、探偵、警察、容疑者多数、被害者。一番疑われた容疑者が、実はそうではなく、一番疑われなかった人物が、実は犯人、という場合が多い。

役割分担がはっきりしているので、探偵は絶対被害者にならない、という安心感から、あのように、人が殺された直後でも、冗談を言って笑えるのかもしれない。それにしても、実生活でこのような場面があったら、ひどく不自然に見えるだろう。

もうひとつは、警察というのは、探偵(あるいは有能な刑事、警部、警視)の明晰な頭脳を際立たせるために登場するが、恐ろしくなるのは、もし読者が事件に巻き込まれて、容疑者になった場合、ポアロなどのような名探偵がそばにいなかったら、あっさり無実の罪を着せられてしまうのかもしれない、という恐怖だ。

実際の警察は、ミステリー小説と違って、ポアロなみに有能であってほしいものだ。

2007年11月27日火曜日

NQOCD

とは、“Not Quite Our Class Darling”の略で、「彼(彼女)はわれわれの階級に属していない」、つまり身分が低すぎると、えらそうな父親が、あるいはつんと澄ました母親が、いけだかにあるいは心配そうに、息子(娘)に行って聞かせる言葉らしい。最近読んだ「イングリッシュローズの庭で」と言う小説に出てきた。

思い返せば、ジェーン・オースティンの小説には、この NQOCD が、あるときは主なメロディとなり、あるときはサブメロディとなって、流れている。

代表作である「高慢と偏見」が面白いのは、この NQOCD が主なメロディだからだろう。そればかりだけではないが。

まったくダーシー氏の一族にとっては、エリザベスは NQOCD だった。

ところで、現代小説を面白くするのはいったいなんだろう、と考える。NQOCD に代わる新しい偏見、それは社会の枠組みを固定しているものだろうが、それはあるのかないのか、あるとすればなんだろうか。