たった一人で森の中に住んでいるとしたら、たとえ、成人するまで人間の社会で教育を受けたとしても、言語は必要ないだろうと思う。
言語はコミュニケーションの道具であるが、道具以上の道具である、というような意味のことを、野矢茂樹氏は『哲学・航海日誌』(春秋社刊)の中で書いている。
靴も衣服も、体を守る道具であり、飛行機や車や鉄道も、移動のための道具である。だが、単なる道具では済まされない。これらの道具こそが人類の築き上げた文明の核心だ。
ましてや、言語は人間が、単なる道具、と言い捨てて済まされる道具ではない。
言語はコミュニケーションのための道具であるが、コミュニケーションと言う限り、他人を必要とする。日々、私たちは他人の言語行為を受け止め、評価するが、同時に自分の言語行為も他人の評価が必要なのだ。そうでなければ、コミュニケーションは成り立たない。
「言葉にならない思い」などというものは存在しない。言葉にして初めて、他人の評価を受けられるようになるからだ。言葉にならない、のは、道具をよく使いこなせていないからかもしれない。
2009年10月18日日曜日
2009年10月12日月曜日
閑話休題―同時代人たち
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は1889年4月26日に生まれ、1951年4月29日に死んでいる。
私のもう一人の敬愛する哲学者、思想家のシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)は、1909年2月3日生まれで、若くして1943年8月24日に死んだ。
二人はほぼ同時代人だといえるだろう。
私の好きな作家の森 茉莉も、1903年1月7日生まれで、長生きして1987年6月6日に死んでいるが、
第二次大戦前、ヨーロッパに行き、ドイツにも立ち寄っている。
確か同時期にシモーヌ・ヴェイユもドイツに旅行していたはずだ。どこかで出会わなかっただろうか。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir:1908年1月9日 - 1986年4月14日)も同時代人だが、あまり好きではない。サルトルもなんだか中身がないような気がするのは、私の偏見かもしれないが。
エコール・ノルマルでサルトルの同級生だったポール・ニザンはいい。政治に翻弄されて、若死にしたのは残念だ。生きていればもっとたくさん面白い小説を残してくれただろうに。
私のもう一人の敬愛する哲学者、思想家のシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)は、1909年2月3日生まれで、若くして1943年8月24日に死んだ。
二人はほぼ同時代人だといえるだろう。
私の好きな作家の森 茉莉も、1903年1月7日生まれで、長生きして1987年6月6日に死んでいるが、
第二次大戦前、ヨーロッパに行き、ドイツにも立ち寄っている。
確か同時期にシモーヌ・ヴェイユもドイツに旅行していたはずだ。どこかで出会わなかっただろうか。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir:1908年1月9日 - 1986年4月14日)も同時代人だが、あまり好きではない。サルトルもなんだか中身がないような気がするのは、私の偏見かもしれないが。
エコール・ノルマルでサルトルの同級生だったポール・ニザンはいい。政治に翻弄されて、若死にしたのは残念だ。生きていればもっとたくさん面白い小説を残してくれただろうに。
2009年10月4日日曜日
Wittgenstein――メモその8 対象の論理形式
『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。
事実から論理空間へのジャンプは、事実を対象に解体し、それを再構成するプロセスが必要だが、「事実を対象に解体する」とはどういうことだろうか。
2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捕らえなければならない。
野矢氏によれば、ここで「外的な性質」と言われたものが、普通私たちが「性質」と呼んでいるものらしい。
つまり、「赤い」トマト、「太った」ミケ、など。
一方「内的性質」とは、「それがないと対象の同一性が失われ、それゆえその性質をもっていないと想像することができない」もの、すなわち「時間的空間的位置」、なんらかの「色と形と硬さ」。
「内的性質」は「対象の論理形式」だそうだ。
そこで、
2.01231 改 対象を捉えるために、たしかに私はその性質を捉える必要はない。しかし、その対象のもつ論理形式のすべてを捕らえなければならない。
事実から論理空間へのジャンプは、事実を対象に解体し、それを再構成するプロセスが必要だが、「事実を対象に解体する」とはどういうことだろうか。
2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捕らえなければならない。
野矢氏によれば、ここで「外的な性質」と言われたものが、普通私たちが「性質」と呼んでいるものらしい。
つまり、「赤い」トマト、「太った」ミケ、など。
一方「内的性質」とは、「それがないと対象の同一性が失われ、それゆえその性質をもっていないと想像することができない」もの、すなわち「時間的空間的位置」、なんらかの「色と形と硬さ」。
「内的性質」は「対象の論理形式」だそうだ。
そこで、
2.01231 改 対象を捉えるために、たしかに私はその性質を捉える必要はない。しかし、その対象のもつ論理形式のすべてを捕らえなければならない。
2009年9月27日日曜日
Wittgenstein――メモその7
『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。
3.001 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうると言うことにほかならない。
よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」する、と結論付けたが、さて、それでは、像と言語はどういう関係にあるのだろうか。
「像と言語とは同じものである」(としてもたいした危険はない)と野矢氏は言う。
引越し先のレイアウトを紙に書いた例が出たが、机を意味する紙切れ、本棚を意味する紙切れ、それらの配列が部屋の家具の配置を意味しているなら、「こうした像の使用をどうして『言語』と呼んでいけないことがあるだろう」
もっとも重要な点は、「成立していることの総体であるこの世界」(現実)から「成立しうることの総体である論理空間」へのジャンプは、「言語が介在するということである」。
言語と言うのはやっかいである。まず、私たちは何かを考え(すなわち思考し)、それについて言葉をあてはめていく、と考えている人が多いのではないだろうか。そうではなく、言語が先なのである。言語のないものについては、考える、ことはできない。
夢がそうだ。夢は脳の活動の残照なので、あとで思い出そうとしても、言語で救い出せない。その端からぼろぼろ零れ落ち、霧散してしまう。
3.001 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうると言うことにほかならない。
よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」する、と結論付けたが、さて、それでは、像と言語はどういう関係にあるのだろうか。
「像と言語とは同じものである」(としてもたいした危険はない)と野矢氏は言う。
引越し先のレイアウトを紙に書いた例が出たが、机を意味する紙切れ、本棚を意味する紙切れ、それらの配列が部屋の家具の配置を意味しているなら、「こうした像の使用をどうして『言語』と呼んでいけないことがあるだろう」
もっとも重要な点は、「成立していることの総体であるこの世界」(現実)から「成立しうることの総体である論理空間」へのジャンプは、「言語が介在するということである」。
言語と言うのはやっかいである。まず、私たちは何かを考え(すなわち思考し)、それについて言葉をあてはめていく、と考えている人が多いのではないだろうか。そうではなく、言語が先なのである。言語のないものについては、考える、ことはできない。
夢がそうだ。夢は脳の活動の残照なので、あとで思い出そうとしても、言語で救い出せない。その端からぼろぼろ零れ落ち、霧散してしまう。
2009年9月23日水曜日
Wittgenstein――メモその6
指標になるように、Wikipedia から以下を抜き出して表示してみた。
1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
2. Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
3. Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
4. Der Gedanke ist der sinnvolle Satz.
5. Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsaetze.
6. Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist :![[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]](http://upload.wikimedia.org/math/0/1/a/01a3cf5f91211db95ef402b4bd20508b.png)
7. Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
以下は英訳。
1. The world is everything that is the case.
2. What is the case (a fact) is the existence of states of affairs.
3. A logical picture of facts is a thought.
4. A thought is a proposition with sense.
5. A proposition is a truth-function of elementary propositions.
6. The general form of a proposition is the general form of a truth function, which is:
.
7. Where (or of what) one cannot speak, one must pass over in silence.
1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
2. Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
3. Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
4. Der Gedanke ist der sinnvolle Satz.
5. Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsaetze.
6. Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist :
![[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]](http://upload.wikimedia.org/math/0/1/a/01a3cf5f91211db95ef402b4bd20508b.png)
7. Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
以下は英訳。
1. The world is everything that is the case.
2. What is the case (a fact) is the existence of states of affairs.
3. A logical picture of facts is a thought.
4. A thought is a proposition with sense.
5. A proposition is a truth-function of elementary propositions.
6. The general form of a proposition is the general form of a truth function, which is:
.7. Where (or of what) one cannot speak, one must pass over in silence.
Wittgenstein――メモその5
『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。
繰り返しになるけれど、
2.141 「像はひとつの事実である」
像=論理空間=言語を代理物とする可能的結合=事態。
しかし、言語もまた、インクのしみとして、のどから出てきた音声として、「世界の中で生じるひとつの事実」だ。
そこで、論理空間は世界を含むが、世界はまた、論理空間を含んでいることになる。
だが、野矢氏は、これはパラドクスではない、とする。
「私」がいる部屋を含んだ建物を取り囲む絵が描かれた紙が、部屋の中にあるというにすぎない。
「思考」が「像において世界の可能性を試みるもの」であるなら、
3.001「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」し、
「像と思考は同じもの」(と言っていい)であるから、思考の限界は言語の限界となるのではないか。
繰り返しになるけれど、
2.141 「像はひとつの事実である」
像=論理空間=言語を代理物とする可能的結合=事態。
しかし、言語もまた、インクのしみとして、のどから出てきた音声として、「世界の中で生じるひとつの事実」だ。
そこで、論理空間は世界を含むが、世界はまた、論理空間を含んでいることになる。
だが、野矢氏は、これはパラドクスではない、とする。
「私」がいる部屋を含んだ建物を取り囲む絵が描かれた紙が、部屋の中にあるというにすぎない。
「思考」が「像において世界の可能性を試みるもの」であるなら、
3.001「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」し、
「像と思考は同じもの」(と言っていい)であるから、思考の限界は言語の限界となるのではないか。
2009年9月22日火曜日
Wittgenstein――メモその4
『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。
なかなか進まない。でもこの難解でシンプルな文章には心地よさがある。
さて、
2.01改「事態とは諸対象の『可能的』結合である」
を、野矢氏は再び言い換える。
2.01 改の改「事態とは諸対象の代理的結合によって表現されるものである」
この「表現されるもの」が、(言語による)論理空間だ。この論理空間は、どこか別の次元にある世界ではなく、事実ではない「(成立していない)事態というのは、現実の代理物によって像として表現される以外、生存場所をもたない」。
この「像」は、
2.141 「像はひとつの事実である」
となるのだ。
むむ。なぜなら、「言語もまた、世界の中で生じるひとつの事実である」からだ。
なかなか進まない。でもこの難解でシンプルな文章には心地よさがある。
さて、
2.01改「事態とは諸対象の『可能的』結合である」
を、野矢氏は再び言い換える。
2.01 改の改「事態とは諸対象の代理的結合によって表現されるものである」
この「表現されるもの」が、(言語による)論理空間だ。この論理空間は、どこか別の次元にある世界ではなく、事実ではない「(成立していない)事態というのは、現実の代理物によって像として表現される以外、生存場所をもたない」。
この「像」は、
2.141 「像はひとつの事実である」
となるのだ。
むむ。なぜなら、「言語もまた、世界の中で生じるひとつの事実である」からだ。
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