2008年12月21日日曜日

歯痛の文学

最近また、歯医者通いをする羽目になった。

治療用の椅子に仰向けになって、つい、思い出してしまうのは、ギュンター・グラスの『局部麻酔をかけられて』(原題Örtlich betäubt)だ。

学生時代、ドイツ文学の演習でやった。小説の主人公も歯医者の椅子に横たわり、局部麻酔をかけられて治療を受けるのだが、その間、あれこれ断片的に考える、という内容だ。

もうひとつ、思い出すのはトーマス・マンの『ブッデンブローグ家の人々』だ。代々落ちぶれていき、最後の当主は、虫歯の治療中に敗血症になり、ものすごい痛みとともに死ぬ。怖いなあ。

2008年12月7日日曜日

“考える”ということの害悪

小さいころから、しょっちゅう言われなかっただろうか。

「よく考えて」
「1たす1は何? よく考えて」

1+1が2であるのは、考えても出てくるものではない。それは教わって初めて憶えるルールだ。その次に1+2を憶えて、世界地図のそれぞれの国の位置を憶えて、漢字を憶えて…。

ルールが悪いというのではない。この世で生き延びるには必要な情報だからだ。

だが、「よく考えて」ということには害悪がある。「どうして怒られたのかよく考えて」と言われて、教師や母親の機嫌の悪かった理由、友達から仲間はずれにされた理由など、わかるはずがない。でも、よく考えた結果、他人の顔色を必要以上にうかがうことになったり、その理由をあれこれ考えて、夜眠れなかったり…。

これは大人になっても続く。

上司に嫌われた理由、親が病気になった理由、年取っていく理由、考える必要はない。考えるだけ時間の無駄だ。それは自分の解決できない事柄だし。

よく考える必要ななかったのだ。怒られたのなら、同じことを二回しなければいい。同じことを違うようにみせればいいだけだったのだ。“考える”が重要ではなく、“行動”が重要だったのだ。