2008年2月26日火曜日

女を追い詰める男――は嫌われる

本日の午後の出来事。

勤務先近くのカフェでの話だ。テーブルをひとつ隔てた席に座った男女。気がつくと険悪な雰囲気。「申し訳ございません」とどうして言えないんだ、と責める男に若い女性、多分二十代前半、は唇をきっとかみしめ、悔しそうに男をにらみつけた。涙もぽろぽろ。

恋人同士だろうか。私も若いころはあんなふうによくいじめられたものだ。「申し訳ありません」なんて、どうして言えるだろう。そう思っていないのに。生半可な理屈で女をいじめる男は多い。そんなことをしても何の得にもならない。

しばらくすると、もう一人三十台前半の男がやってきて、隣に座った。なんだ、会社の同僚同士だったのだ。若い女性は口も利かず、ついと席を立って店を出て行った。

あああ。あの男、これからさぞ仕事がやりにくくなるだろうな。でも、自業自得ですよ。男の理屈と女の理屈は違うし、男の理屈で攻めて「はい、ごめんなさい」と言ってくれるのは同性の男だけなのにね。

2008年2月24日日曜日

猫に薬を飲ませる―Have a cat take a medicine

Have a cat take a medicine は難しい仕事だ。

子猫を保護すると、二歳になるまでは体ができていないので、しょっちゅう病院通いしなければならない。
風邪を引いた、目を怪我した、しばらくすると避妊や去勢の術後で抗生物質、痛み止め、止血剤、
アレルギーだと抗ヒスタミン剤、虫がわいたとなると駆虫薬。

そのたびに大騒ぎして薬を飲ませるが、これがまた難しい。口の大きな子は比較的簡単に思えるが、絶対飲むもんか、と頑強に抵抗する猫も多く、タオルでまいて口をあけてまるで拷問のような投与になる。ますます猫は嫌がる。

何十年も猫と一緒に暮らして、ようやくなんとか自力で(獣医さんにお願いせず)猫に薬を飲ませられるようになった(一部の猫を除き)。のどが伸びた状態で口をあけさせ、重力の法則の助けを借りて、ぽん、と薬をのどの奥に落とす。これが極意。

それでも飲ませるのが難しい薬もある。止血剤、駆虫剤などがそうで、ひどくまずいらしい。

面白いのは、猫本人にも少し自覚症状があると(なんとなく気持ち悪い、具合が悪い)、比較的飲ませやすい。猫も飲まなくっちゃ、と思っているらしい。

ピーター君は今年十歳になるオス猫でいいおじさんなのだが、薬が大嫌いだ。具合が悪いときは飲んでくれるが、ところが、少し具合が良くなると、もう薬はいいです、と勝手に自己診断して、また、断固として飲まなくなる。、と人間同士で話していても、耳がぴくっと動いたかと思うと、一目散に逃げてしまう。
こういう猫はどうしたもんだろうか。

2008年2月22日金曜日

KY and RA――空気を読む?

最近流行の言葉、"KY" は「空気を読む」という意味だそうだ。英語だと "Read air" というそうだが、本当かな。

"Read air" という言葉があるとすれば、英語圏でも得体の知れないもやもやした、言葉で表されることのない微妙な場の雰囲気を読むテクニックがあり、それがなければ、コミュニケーションをうまくとることができなくなる、ということだろうか。

「空気を読む」ことは、インターナショナルな振る舞いか?

2008年2月20日水曜日

新しい皮袋には新しいワインを――ケータイ小説のレゾンデートル

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋の入れはしない。…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(日本聖書協会による『聖書』ルカによる福音書:5. 37-38)

ケータイ小説が女子中学生や高校生の間でブレイク中だそうだ。私は読んだことがない。稚拙な文体、稚拙で非文学的な内容などとさぞかつての文学青年や文学少女だったおじさん、おばさんの評価は低いだろうな、とおもうが、これが書籍化され、ベストセラーになり、映画化されるとなると、無視できない。

思うに、インターネットは、とくにケータイインターネットは新しい入れ物である。その新しい入れ物に、古いコンテンツ、昔風の小説や映画をいれたところで、腐ってしまうだろう。デジタル書籍が、思うように振るわないのは、そのせいかもしれない。

あるいは、新しい入れ物ができたからこそ、新しいコンテンツが必要になり、生まれてきたのだろう。

映画だって、最初は第三の芸術だ、と馬鹿にされた。そもそもの小説だって、女子供の読むものだ、と見下されたものだし。それを考えれば、ケータイ小説だって何十年か先には、芸術になるかもしれないし。入れ物とともに成熟していくと思うけれど、どうだろう。

少なくとも、インターネットに押されて瀕死の出版業を救うことはできそうだ。

2008年2月17日日曜日

七人の敵-続編(Old Office Politics)

と言うような話をチャットで米国の友人にしたら、
「the old office politics again」という返答が返ってきた。

なんとまあ、「見ざる、言わざる、聞かざる」は、全世界、少なくとも日米欧では会社生活における普遍的な戦略だったわけだ。何十年と会社で働いてきたのに、そのような真実も身につけていなかった、私という人間が愚かだったことが判明した。

猿よりも深い反省を!!

七人の敵

大昔、高度成長期のサラリーマンおじさんたちが良く、「男は外に出ると七人の敵がいる」と口にしていた。子供であった私は、そんな馬鹿な、戦国時代じゃあるまいし、と思ったものだが、最近この"七人の敵"に悩まされている。

もちろん私は男ではないので、敵も七プラス"男と言う敵"プラス"女と言う同姓の敵"がいることになり、合計"九人の敵"がいることになる。すごくうっとおしいのだ。

そこで、友人の助言に従い、これらの敵を敵とみなさないことにした。彼ら(彼女ら)が(私から見ると)理不尽で無作法な行為をしたり、あるいは仕事を遂行する上での義務を怠ったりしても、無視するのだ。"見ざる、言わざる、聞かざる"に徹して、とりあえず、自分のしなければならないことのみに専念する。

これは実に効果的だ。仕事上のストレスが半減し、人間関係が良くなり、私の精神衛生も向上した。

日光の猿は偉大であった。