2007年8月28日火曜日

「普通」であることの偉大さ

自伝は面白い。
もちろん、自伝でなくても第三者によって書かれた伝記も、面白い。

著名な人の伝記は、出版社が出版するので、
手に入るが、普通の人々の自伝は、自費出版であり、
親戚や親しい友人でない限り、ほぼ入手は不可能だ。

素人が書いた自伝なんか、つまらない、と昔は思っていたが、
「普通」に生きることがいかに難しいか実感する年頃になると、
自費出版も面白いと思うようになった。
まともな人生をまともな価値をもって生きた「普通」の人を知るには、
これが一番ではないだろうか。

もちろん直接話を聞くことができれば、それが一番だが、
一生分を話してもらうには、何日もかかるだろうし、
聞き漏らしたり、相手が話し忘れたりすることも出てくるだろう。

『思い出の記』は、たまたま、十何年年も前に同僚だった人の、
おばあさんの自伝だ。
その同僚は運良く編集者でもあったので、
おばあさんの伝記を、美しい一冊の本に仕上げた。

長野県の山間部の村に明治四十年に生まれたツルヨさんは、
小学校で成績が良かったにもかかわらず、
進学せずに、お百姓さんだった両親を手伝うことに何のためらいもない。

これが、田山花袋の『田舎教師』的、文学愛好者であれば、
あるいは出世至上主義者であれば、
進学できなかったことを一生悔やむか、
あるいは、無理をして進学し、その後挫折の人生を歩む、
ということになるのだろう。

しかし、普通のまともな女性はそういう風には生きない。
ころあいを見て、日赤の看護婦になろうか、あるいはそれがだめであれば、
産婆への道を進むのだ。

お見合いで結婚し、
子供を育てながら、戦後は助産婦として、七十歳意過ぎまで働くと言うのは、
これはもう、単なる「普通」では済まされない。

偉大な「普通」の人生だ。