2009年3月22日日曜日

ダビー『シモーヌ・ヴェーユの世界』(3)

シモーヌ・ヴェーユを体系的に理解しようとしてはならない。

思想の断片がひとつひとつ、真実のかけらなのだ。それらを無用な接続詞や、文や、段落でつなぎ合わせようとすると、たちまち、硬直化してしまう。

原因があって結果があり、原因は結果を導き出すためにあり、結果は原因がなくては、意味を成さない、と考えるのは、近代的な悪しき思考だ。

サンディカリストとして出発し、敬虔なキリスト教徒として死んだ、とシモーヌ・ヴェーユを理解すれば、それは理解しやすいだろうし、その生涯の変節の原因を穿り出し、いかにもわかったような顔をしたいかもしれないが。

しかし、表面以外はいかなる変節はなかったし、何も変わってはいない。変わったのは時代だ。

2009年3月15日日曜日

ダビー『シモーヌ・ヴェーユの世界』(2)

シモーヌ・ヴェーユなんて、いまどき読む人はいないだろうなあ、と思いつつ。

20世紀の最後の十数年は、なにしろコンピューターネットワークに世界中が(多分)熱狂し、さまざまな技術が登場し、それをビジネスにして多くの会社が出没し、たちまち百万長者が増えた、という時代だったので、新しい技術(でなくてももちろんOK)でもって、ビジネスを立ち上げ、金持ちになる、すなわちみんな気づかないうちに拝金主義者になった時代だ。

「科学は今日、ある人々からは技術的処方の単なるカタログとして、他の人々からは、精神の自足的な純粋支弁の全体として見られている」(邦訳:山崎庸一郎)

すなわち、ビジネスマン対ギークか。

2009年3月8日日曜日

ダビー『シモーヌ・ヴェーユの世界』(1)

を読んでいる。ずいぶん古い本だ。フランスでは1961年、日本では(翻訳されて)1968年に出版された。
1968年といえば、翌年には東大の試験がなかった年だ。

今また読み返して、改めて、彼女が34歳と6か月という若さで亡くなったことに、驚く。と同時に、痛ましい。

短い生涯の間で普通の人間がたどり着くはるかかなたにまで(思想的に)到達した彼女は、非常にユニークだ。天才、といってすませられない人間だ。ある種の人々が飢えている真実を示してくれる。