2009年6月7日日曜日

時間について

カントは『純粋理性批判』で、「時間と空間は人間の思考の枠組みである』というようなことを書いている。

そうか。ということは、「時間」というものが、りんごや猫や人間と同じレベルのものではなく、言ってみれば、人間の妄想かもしれないね。

「過去」「現在」「未来」について、もっともらしく私たちはしゃべったりするけれど、それにいったいどんな意味があるのだろう。

「過去」について、老人は自分の自慢話をしたがるし、「未来」については、子供たちなどは、「将来何とかになる」とかいう作文を書かされたり、「いい大学を出て一流企業に勤めなさいね」と親から理不尽にも期待されたりするけれど、また、本人も「今いっぱい勉強すれば、将来は遊び放題で楽ができる」と誤解したりする。

でも、「現在」はおろそかにしていいのだろうか?

「過去」は「現在」が過ぎ去ったものだし、「未来」は「現在」の積み重ねだ。

朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べる、外を見ると、すずめが鳴いている。朝日がきらきらまぶしかったり、木の葉がつやつや鮮やかに輝いていたりする。空は透明な光に満ちているのだ。

また、「あのときもっと勉強しておけばよかった」とか「あのとき違う人と結婚していれば」とか、後悔してなんになるのだろう。後悔することで「現在」を侮辱している。

そして、もっと時間がたつと、また、今やらなかったこと、選ばなかったものを後悔するのだ。「現在」を惨めな「過去」に変えることを人生にしてしまう。

私たちは過去や未来に生きているわけではなく、今、この瞬間を生きているのにね。

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