『論理哲学論考』(論考:Tractatus Logico-philosophicus)について、というか、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹:ちくま学芸文庫)についてのメモ。
繰り返しになるけれど、
2.141 「像はひとつの事実である」
像=論理空間=言語を代理物とする可能的結合=事態。
しかし、言語もまた、インクのしみとして、のどから出てきた音声として、「世界の中で生じるひとつの事実」だ。
そこで、論理空間は世界を含むが、世界はまた、論理空間を含んでいることになる。
だが、野矢氏は、これはパラドクスではない、とする。
「私」がいる部屋を含んだ建物を取り囲む絵が描かれた紙が、部屋の中にあるというにすぎない。
「思考」が「像において世界の可能性を試みるもの」であるなら、
3.001「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
よって、「思考可能性の限界と像の可能性の限界は厳格に一致」し、
「像と思考は同じもの」(と言っていい)であるから、思考の限界は言語の限界となるのではないか。
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